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武蔵野航海記

武蔵野航海記

聖人

儒教では皇帝は「聖人」でなければならないと考えられています。

そして「聖人」とはどういう人なのかをいままで何回となく説明してきたのですが、日本語の「聖人」という言葉が混乱していることに気がつきました。

「聖人」とは本来儒教の言葉なのに、明治になってキリスト教の偉い人も「聖人」と翻訳してしまったのが混乱の原因です。

キリスト教の「聖人」も儒教の「聖人」も、その教え通りに生きた人という意味では同じです。

しかしその教えの中身が全然違うので具体的なイメージが全然違うのです。

現在の日本語の「聖人」は、キリスト教の「聖人」の影響で政治家ではなく高僧のイメージです。

独身を通し質素な生活をして祈りそして働いている人です。

これがキリスト教の神に近づく生活です。

こういうイメージを持っている人に、チャイナの皇帝が「聖人」だと言っても全然納得できないと思います。

後宮の美女を三千人抱え贅沢三昧をしていて、お祈りなんかしないのですから。

チャイナの「聖人」は政治家です。

チャイナの天は皇帝に道徳的な態度を要求していますが、その内容は「正しい人間関係を維持することに努力すること」に尽きるのです。

親には孝行し、宗族の利益を守ることです。

目上のものは目下に愛情をもって接しなければなりません。

また主君と臣下はそれぞれが負っている義務を守らなければなりません。

友人は大切にしなければなりません。

これらの道徳的な行為は自分が正しいと感じているだけではダメで、儒教の古典が規定しているマニュアルに合っていなければなりません。

外観が大事なのです。

別に贅沢や異性関係が悪いというわけではありません。

美食がいけないということもありません。孔子は最高の聖人とされていますが、彼は美食家で特に人肉の塩辛が好きだったそうです。

人の財産を奪わなければ贅沢をしても構いません。

人妻や同じ宗族の女でなければ、何人妾を抱えていても問題がありません。

チャイナには質素に生活するのが美徳であるという発想はありません。

要するにチャイナの「聖人」に求められているのは、宗教家としての資質ではなく、チャイナの伝統的な価値観を守ることが出来る能力です。

この辺が今の日本人には分からなくなってしまったようです。

普通のチャイニーズは伝統的な価値観を努力しなくては守れません。そのために儒教を学び古典を読むのです。

しかし「聖人」は先天的にこのような道徳が身についている人で、自由に振舞ってもこの道徳基準に合致しているのです。

儒教の「聖人」とはこのように一種のフィクションです。

そして皇帝はこのような「聖人」であるべきだと儒教では教えているのです。


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